ツイッター、ものすごい幅利かしてますねw。
マスメディアでも”街の声”として出てくるのはツイ民の声w。
私はツイ民ではないので、私の声は少なくとも街の声になることはあり得ません。
日本のツイッター騒動だけでも思ったのですが海外でも同様の現象が起きているというのは非常に興味深く、それで私が思い出したのが、オルテガの大衆の反逆です。ちなみに私、これ読んでませんw。読もうとおもってるのだけどまだ買ってない。100分で名著を見て以前興味を持ったのですが、とにかくまだ読んでないw。しかし100分で名著で取り上げられてから、ネットでは話題にする人がにわかに増えてるみたいです。
引用元①
大衆の定義も結構難しくて、逆説的な定義をしているようにも見えます。
上記まとめによりますと大衆とは・・・
①主体性なし②人間集団の数の力に依存③固有性という責任を持たない匿名に埋没④仲間集団と同じであることに喜び⑤集団的無責任に安心をおぼえ、⑥反対に出る杭は打ち他集団への極端な排他性と不寛容さをもつ人々です。中略。彼らは自分を疑わず、知的な人間であると思い込む。”専門家”というのもここに属しがちだそうです(ファクトチェック要w)。
とのことw。対峙するのは”貴族”という言葉です。これも字義が通常とは違うのですが、おもに上と逆で、自己の固有性というものを集団のなかから突出させるために、努力している人だそうです。
昔は貴族=制御する側、大衆=歯車という力関係だったのが、19C以降、逆転して、大衆による制御が行われるようになったそうです。
結果、
対話や努力や義務の遂行によってしか維持されない単なる思想である「自由」や「平等」が問答無用の真理的事実とされ、ルールを守らない身勝手な振る舞いで社会というゲームを動かしていきます。
やがて社会から文化と理性が消失してゆき、残るものは現代の「野蛮」と化した大衆の反逆のみです。
とのこと。いまやんw。私も大衆だと思うけど、野蛮にはなりたくない。
SNSを見ていると、もうなんでもかんでも自分に不都合なことを、自由や平等に置き換えて、便乗しているのを最近よく見ます。それ、多分だめw。そう思った一連のSNS騒動です。ツイッター=大衆の象徴なんでしょうか?そんな感じもしてきますよね、モハヤwハッシュタグとかリツイートとか、まさにそれ。
なのであえて今のタイミングで乗っかろうとも思えないです。
いまでこそこの本読む価値ありそうですよね。
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