原始政治経済の基盤はまず九州が黎明→どこかの時点でヤマト(奈良)に場所が移った」と考えるのが自然だと思います。東遷は確実にした。はたして魏志倭人伝のいう「邪馬台国」がどの時点のことかということですが、私は現時点ではいったん昨今は否定されがちな「九州説」に軸足を置いています。ここから邪馬台国さんになりきっての想像なのですが、たとえば、”何らかの事情”があって場所を変えなくてはならなかったけど、”中の人”は継続だった場合、お引越しの際に、地形的に似た場所にお引越しするという可能性が高いのではないかと思ったのですね。当時は軍事面での立地というのは非常に重視すべきですし地の利というのは重視されたはず。それで、箸墓をみますと下記のとおり天理と桜井市の間くらい(ピンがたたない)。でもこの地図は埋め立てをした現代の状態なので、古代の大阪湾を探すと、、、
牛情報 ※ 邪馬台国には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
有明海の昔の地形図がどうしても見当たりません。
そこで海じゃなくて山のほうから当たりを付けたいと思います。
これ奈良県桜井市↓くだんの箸墓は巻向のあたり。
ちなみに前回のとおり、奈良の大和朝廷前身期には、大和湖沿岸に都があった(!)いうことになります。これかなりびっくり。湖沿いに巻向はあったのですよ!堺に5Cあたりの古墳群があることも非常に納得できますね!船で大和川をのぼりながら、右手に見るというコースをいったとしたら、非常に、わかるw。
まとめると、まず湾であること(凹)。そして湾から船で来たとき、ちょっと平野があって、一山あって(ここから海を見張った?防衛目的かも)、湖があって、みやこがあること。川を上って船で入っていけること。
というルールにのっとると、熊本にはこの時代茂賀の浦というのがあったそうです。以下勝手に引用したら怒られるでしょうか↓
”4万年前から縄文時代の終わりまでは、菊鹿盆地は、湖水の中にあった。(図-①茂賀の浦と縄文遺跡)この湖を「茂賀の浦」と言い、弥生時代になると次第に水が引き始めて、その範囲はだんだん縮小していった。”
水が引き始めた所にいち早く稲作の技術と鉄器の技術を持った人々が住み始め、肥沃な土地と生産技術と相まって強力な古代国家を築いた。これらの人々は、海神族といわれ、後からやってきた八幡勢力に征服されてきた形跡が、鞠智地方で展開される。
引用元は下記です↓
これが菊鹿盆地。サロマ湖に匹敵する規模の湖だったそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E9%B9%BF%E7%9B%86%E5%9C%B0
現在
コメント
コメントを投稿